「ちょっ…だ、だめだってば!だめだよ!」

思わず乱暴にその肩を押し返したら、さっきまで常人とは思えない力でわたしをソファに押さえつけていた和雄の腕はあっさりと離れた。和雄はちょっと驚いたような顔で大きな目を更にまあるく開いて、呆然とわたしを見つめている。でも、その顔にはもーだまされない!だって、たまには一緒に宿題しよって誘ったら、全然戦力にならないのは想定の範囲内だったけど、いきなりスカートの中に手突っ込んできたから!

「なんで」
「なんでって…そんなのわたしが聞きたいくらいだよ!」

めくれ上がったスカートを直しながらそう返すと、和雄は少しだけ眉を寄せて首を傾げた。そうでなくてもさっきから和雄のガムの甘いにおいと香水のいいにおいで集中できなかったのに!和雄はしばらく考えるようにゆっくりとガムを噛むと、ごく当たり前のような表情ではっきりと言った。

「暇だから」

ひ、ひまだって?わたしが和雄だけに与えられた分の宿題まで自力で解くはめになりそうだっていうのに、この男はしれっとなんということを言うんだろう!わたしはずっとテーブルの上に放置されている和雄の数学ノートを手に取ると、ぱらぱらとめくってみた。ノートの表紙に名前もなければ、汚れの一つもない時点である程度わかってはいたけど、和雄のノートはそもそも最初の1ページすら真っ白だった。

1、暇だから。2、わたしがいるから。ほぼこのふたつだけの理由で学校に通っているらしい和雄が…そもそも学校の教室にいたって勉強してない和雄が、ろくに家で宿題なんてするわけなかったんだ!こないだも中間テストを全教科白紙で提出したって先生が頭抱えてたし、体育の時間も川田くんと和雄だけなぜかジャージ上下だったし(あれ、あんま関係ない?)。とにかく、この男の学業に対するやる気のなさは半端じゃない。というか和雄は基本的にいつだってやる気がないのだ。

…それにわたしと和雄は同居人で家族みたいなものだし(お母さんが知り合いの親戚の再婚相手の連れ子だった和雄を3年前からあずかってるんだけど、最初かっこいいなって一瞬でも思ってしまったわたしがおろかだった)それに、これ以上和雄が勉強しなかったら先生があまりにもかわいそうだ。しかもこんな見るからに扱いづらそうな男。

きっと先生が言うよりはわたしが言った方がまだ聞く耳をもってくれると思ったのに…。わたしは制服の上からでもわかる細い脚であぐらをかいている和雄の前に、改めてノートの最初の1ページと教科書を広げた。

「暇じゃないよ、宿題あるじゃん」
「興味ない」
「もー、明日テストもあるんだよ?」

わたしが思わずちょっと怒ったみたいな口調になると、なぜか和雄がおかしそうにくくっと喉の奥で笑ったからめちゃくちゃカチンと来た。もういい。もうこんなやつ知らない!ひとつ大きく咳ばらいして、わたしは自分の宿題にとりかかった。和雄はしばらく隣で黙ってガムを噛んでいたが、やがてゆっくりとわたしを見上げると、言った。

「じゃあ」
「なに?」
「もし明日、俺が満点とったら」

もともとおかしかった頭が更におかしくなったのかと思って、平静を装いたかったけどわたしは思わず持っていたペンを落っことした。拾い上げながらおそるおそる和雄の表情を伺うと、和雄は特に変わりなく、いつものけだるげな表情で、少しだけ楽しそうな微笑みを唇の端っこに浮かべてた。

「どうする?」
「どうするって…だって、」

和雄がまともにテストを受けるっていうだけで「服が透けて見える眼鏡を発明しました」って言われるくらいありえない話なのに、和雄がテストで満点だって?そんな冗談、さすがにわたしにだって冗談だってわかるよ!わたしは折れてしまったシャープペンの芯をカチカチと押し出しながら尋ねた。

「テスト受けるの?」
「条件」
「え?」
「俺の言うことなんでも聞く?」

いま、しれっと恐ろしいことを言われた気がするんだけど…

和雄の『なんでも』のえげつなさを想像したら一瞬不安が頭をよぎったけど、でもたぶん大丈夫。だってそんなことあるはずない。きっとあるはずがない。たぶん。…たぶん。
それに和雄がちゃんとテストを受けるなんて、先生が聞いたら泣いて喜んじゃうくらいのビッグニュースだもん。それでさすがにいきなり満点はないと思うけど、でも受けるだけで和雄にとっては大きな価値があると思うし。この賭けが和雄にとってやる気の原動力になるなら乗ってもいいと思うし、わたしにとってもローリスクハイリターンだし。

「うーん、わかった!いいよ」

さりげなく、「じゃあ、とりあえず宿題しよ」と言ったら即答で「興味ない」と言われて、いきなり出鼻をくじかれた気分です!和雄はその後もやっぱり勉強することなく、わたしの隣でガムを噛んだり、意味もなくテーブルに突っ伏してみたりして、宿題タイムをやり過ごしていた。

 


ノックなしに部屋に入ってくる習慣は何度言ってもなおらないし、改善する気もないんだと思う。背後から聞こえた部屋のドアノブのガチャ、という音にわたしはポッキーを食べていた手を止めて振り返る。制服姿の和雄の手にはプリントが握られていた。昨日やった数学のテストのプリントだ。

「あ、和雄。おかえ…」

あれ。…え、あれ。まさか。一瞬の疑問はすぐに確信に変わって、一気に顔から血の気が引いた。持っていた食べかけのポッキーが広げた雑誌の上にぽとりと落ちる。和雄の唇が、にやりと笑った。


 
 
 
 

そして勝利を掴み取る/20080402