何合か打ち合ったところで(とはいっても周泰は受け流すばかりで打ったのは殆どだったが)はふっと膝の力を失って倒れる。周泰はの異変に気付くと即座に剣を鞘に納め、素早くの腹の辺りに腕を入れてその体が地につく前にぐっと上に引き上げた。「大丈夫ですか」はぁはぁと肩を上下させるの顔を少しだけ覗いて、周泰は低く訪ねる。は「ごめん…大丈夫」と掠れた声で言うと、ゆっくりと力をいれて体を起こす。しかし思う様に動かぬ体に「あっ」と小さく声を上げてまた前のめりになった。

「…いけません。休みましょう」

 

 
シャングリラの朝

 

 

道場の脇を出て中庭に出ると、新鮮で爽やかな風がそこにはあった。僅かに瞼を持ち上げると、周泰が自分の体を抱いて歩いているのが見える(けれどもそれに抗う体力はもう残っていないし、自分の脚ではふらついて上手く歩けないだろうから任せる事にした)。そのまま中庭を通り過ぎて木々の揺れる小さな広場の辺りに出ると、周泰は木陰に入り、の体をそっとそこに降ろした。木漏れ日の中に見える彼の顔に「ありがとう」と礼を言う。その声は自分でも驚くほどに疲れて、掠れていた。周泰は「いえ」と返して身を翻すと、すぐ目の前に見える泉の方へと歩いて行く。は暫くぼんやりとその後ろ姿を見つめていたが、やがて静かに目を閉じた。枝葉をさわさわと揺らして吹き抜ける風、柔らかく差し込む太陽の白い光。目を閉じて自然に身を委ねていると、小鳥のさえずりまで聞こえてくる。何と平和で素晴らしい朝。暫くそうして目を閉じていると額を伝う汗も消え、体を駆け巡っていた熱も消えて行く。少し楽になった体で、は小さく深呼吸をした。
不意に瞼に感じる光にふっと影が差し、は僅かに目を開く。と、鼻先にぽたりと何かの雫が落ちて、思わずきゃっと小さく声をあげた。周泰は「すみません」と低く謝ると、自分の大きな手のひらをかざして濡れた布(恐らく自分の胴着を裂いて、泉の水に浸したものだろう)をそっとの額にのせ、その隣…と言うには少し遠い位置に腰をおろす。は額の上にある布にそっと触れて確かめると、隣の周泰を見て「ありがとう」と微笑んだ。

「迷惑かけてごめんね」
「…いいえ、迷惑などでは」

周泰は短く返す。最低限の言葉しか口にしない彼の言葉はいつも短い。だからあまり会話は弾まない。それでもは周泰と会話をするのが好きだった。難しく説明すると、とてもとても長くなるので省略するけれど、単純に言えば自分は彼が好きだから。
二人の間を風が吹き抜けて、また背の低い木々の枝葉がさわさわと音をたてる。周泰は暫く黙ったままその風を受けていたが、やがてふっと口を開くといつもの低いぼそぼそとした調子で言った。

「あの暑さの中では仕方のない事です…」

呟く彼の額には一筋の汗も見当たらない。「暑い」という言葉は周泰には少し不似合いで、は少し笑った。水面が木漏れ日を受けてきらきらと輝いている。周泰は暫く黙ったままそれを見つめていたが、やがて鞘から剣を抜くとそれをそっと木漏れ日にかざした。訓練用の木で出来たそれは、の打ちを跳ね返した時にできたらしい傷であちこちが僅かに削れたりへこんだりしていた。

「ごめんね、新しいの作らなきゃ」
「…いいえ、じきに替える予定でした…様が気になさる事はありません」

周泰は暫く剣を木漏れ日にかざしていたが、やがてすっとそれを腰の鞘に戻す。その瞬間のカチャンという木の音に、戦場で聞いたカシンという金属の音を思い出す。始めて周泰が剣をおさめるのを見た時はその動きの無駄のなさと早さに感動したものだった(もちろん今でも彼の剣技を尊敬しているし、感動する事も多いけれども)。は「周泰って優しいね」と少し首を曲げて、彼の顔を真直ぐに見て微笑む。周泰は驚いた様に僅かに目を丸くすると、「…人にそんな事を言われるのは、初めてです」と返した。その言葉に、「私はずっと前から思ってたよ」と微笑んだ。

「今だって戻ろうと思えば戻れるのに、ここに一緒に居てくれてるし」

驚いた様に目を丸くする周泰を見て、は思わず吹き出す。時折彼の見せるこの表情が、何より面白くて愛おしくて大好きで。ぷくくと肩を震わせて笑うの隣で周泰は暫く複雑な顔をしていたが、やがて小さく咳払いすると「…様の体調がまだ心配ですので」と低く呟いた。その言葉に今度は逆にが目を丸くして思わず言葉を呑み、暫く固まっていたが…やがて少しだけ目を細めて返した。

「…ありがとう。やっぱ、優しいね」

きっと彼は「主君の姉君様ですので」ってまたあの声で低く返すんだと思ってた。でも彼は「…そうですか」と呟いたきり、何も言わなかった。きっと心の中では私の予想したあの言葉を返したんだろうけど、それでも周泰が、私の立場を考えた上での感情である事を説明しなかったのはすごく嬉しかった。…周泰だけには、権の姉だからっていう理由だけで大事にされたくない。―――この恋が実らないのであれば、それはただの我が侭だけれども。
周泰は黙り込んで何か考えている様子だった。は体を芋虫のようによじ周泰の元へと近付くと僅かに力の入る様になった腕に力を込めて上体を起こし、あぐらをかいた周泰の膝にそっと自分の頭を預けた。周泰はのその行動に驚いた様に目を丸くすると、「様」と咎める様にその名を呼ぶ。は彼のその少し間抜けな表情に笑って、言った。

「嫌?」
「…嫌ではありませんが…」
「じゃあ、ちょっとだけこうしててもいい?」

少し困った様に宙に視線を彷徨わせてから、周泰は「はい」と低く頷いた。否、彼にはその選択肢しかなかったのかもしれない。嬉しそうにくすくすと笑って、は「兄様と権以外の男の人の膝枕って初めて」と弾んだ声で言う。周泰はその言葉に複雑な表情をすると、「…すみません、心地悪いでしょう」となるべく自分の膝の上のを見ない様に言った。は笑うと、「心地悪くないことはないけど、すごく嬉しいの」と満面の笑みで返す。周泰は視線を宙へやったまま、何か考える様な間の後に「そうですか」と僅かに掠れた声で返した。
再び風が吹き抜けて、木々がさわさわと音をたてた。は周泰の膝の上で目を閉じ、周泰はなるだけの寝顔を見ない様に視線を空へとやっている。この爽やかな朝に、この場所から見るこの美しい景色。高鳴る胸が苦しくないと言えば嘘になるけれどもそれでも…否、だからこそはすごく幸せで、この場所をまるで楽園の様だと感じていた。ああ、額を濡らす布が心地よい。

 

 

20030712