ラブ・フロート

 

「あっ、あそこ見て!小さな魚の群れ!」
「…様。そんなに身を乗り出すと、危険です」

橋の上から思いきり身を乗り出して川を眺めるを見て、周泰は複雑な表情で顔をしかめる。うきうきとした様子で目を輝かせている、心配そうに横からそれを眺めている周泰、きらきらと輝く午後の太陽。それぞれが透き通る様な美しい水面に映し出されている。再び自分のいる橋の下を魚が通り過ぎたのを見て、は「いた!」と声をあげて更に身を乗り出した。今にも橋から何メートルか下の川に落ちてしまいそうなその体勢に、周泰はの襟首を掴んで今すぐに引き戻したい様な気持ちだった。

「見て見て、わかる?あそこだよ」
「…見えております」
「ほら、もっとこっちで見たら?綺麗なんだから」

は周泰のマントを掴んで強引に自分の隣に引き寄せる。引き戻そうと思っていた所を逆に引き寄せられて渋い顔をしたが、それでも抗えずに周泰は大人しくの隣に大きな体でちょこんと座った。川は音を立ててさああと流れていく。は水面を見つめたまま、「綺麗だね」と微笑んだ。

「…様、落ちますよ」
「落ちないよ。それに落ちたって泳いで上がればいいじゃない」
「…着物が濡れます」
「濡れたら乾かせばいいでしょ」

ああ言えばこう言う。何を言えどもいとも簡単に言い返してくるに、周泰はまた複雑な顔をして黙り込んだ。は周泰の顔を真直ぐに見上げてその表情を伺うと、途端に「そんな顔しなくたっていいじゃない」と吹き出す。けたけたと笑うの横で、周泰は憮然とした表情で川の流れを見つめていた。
さああと涼しい音を立てて、川は浮き草を押し流してどんどん流れて行く。太陽の光を受けて、魚の背中がきらきらと輝いた。時折魚の姿はふっと透き通る水の奥底に消えて、消えたかと思うとまたふわりと浮かび上がってくる。川に映る二人のそれぞれの表情はその波紋にかき消され、そしてすぐにまた水面に現れた。不意に水面越しに目が合って、はにこっと微笑んで手を振ってみせる。周泰はそれに気付くと、ただ黙ったまま困った様に顔を顰めた。

「もう、そんな顔ばっかり」
「…生まれつきです」
「違うよ、周泰はもっと優しい顔してるもん。権といる時とか…」

「周泰は私より権の方が大事だもんね」からかう様に笑ったかと思うと、は途端にしょんぼりとした様子で立てた膝にそっと顔を埋める。周泰は突然のの様子に驚いた様に目を丸くすると、困った様に「…様も大切です」とその肩に触れようと手を伸ばし…それでも何となく触れられずに、やり場をなくしたその手をそっと握った。「権とどっちが好き?」膝に顔を埋めたまま、少しこもった声では彼に尋ねる。周泰はますます困惑した表情で「様…」と呟くと、「…比べられるものではありません」と続けた。

「周泰」
「…はい」
「周泰ってモテないでしょ」
「…はい?」
「こんなに女心のわからない人がモテたらもう世も末よ」

その声は少し震えていて、周泰の胸を不安がよぎった。もしかしたら、自分は何かまずい事を言ったかもしれない。また何か下手な事を言って、複雑なの心を傷つけたかもしれない。「殿」今度こそその肩に触れようと手を伸ばす。しかしの肩まであと1cm程という所まで近付いたその瞬間、は「馬鹿!」と叫んで膝を抱えていた手を拳にして大きく天に向かって突き上げた。その拳はに触れようとした周泰のその顎に見事にクリーンヒットし、周泰は思わず顎を押さえてうずくまる。は拳の違和感と聞こえてきた小さな呻きに隣でうずくまっている周泰に気付き、「わっご、ごめん!!」と慌てて周泰の顔に手を伸ばす。しかしその時、は足元を滑らせてガクリとバランスを崩す。そして次の瞬間、ふわりと体が宙に投げ出されるのを感じた。

「あ…」
様!」

珍しく、彼が大きな声を上げた。咄嗟に手を伸ばして、周泰はの腕を掴もうとする。しかし時は既に遅く、その手は虚しく空気を掴むのみだった。ばしゃん。の体が川に沈む音が聞こえて、周泰は「様!」とまた声をあげる。そして素早く無駄な衣服を脱ぎ捨てると、追う様にその川に飛び込んだ。
 
 
 
 
 
「…ごめんね、周泰」
「…いえ」
「…本当に本当に本当にごめんなさい」

は素肌に周泰の上着を着たまま、ごめんなさいと何度も周泰に頭を下げる。周泰は「…私が様をお守りするのは当然の事です」と、上半身を露にした格好で鼻をすすりながら返した。川は思ったよりも浅く、は落ちた後すぐに自力で水面に浮く事ができた。周泰は飛び込んだものの、水面に顔を出して驚いた様に自分を見ているを見て自分も目を丸くした。二人は感動のシーンもなにもなく、あっさりとお互いに自力で助かってしまったのである。はともかく、周泰は無駄に川に飛び込み、無駄にびしょびしょに濡れてしまった。まぁもっとも、彼は「を守る」という当然の事をしたまでだったが。
焚火を囲んで二人で交互にくしゃみをする。は「ごめんね」とまた謝った。周泰は「いえ」と短く返すと、焚火に枝を入れる。そして思い出した様にまた小さくくしゃみをした。

「でもね、周泰。迷惑かけておいて、こんな事言うのもちょっとどうかと思うんだけど」
「…はい」
「…わたし、周泰が助けてくれようとした時、すごく嬉しかったの」

周泰はその言葉に僅かに目を丸くして、を見る。そしてすぐ、再び目を丸くした。「そうですか…」と返したまま、ずっとの顔から目を離せない。周泰は心底嬉しそうな表情でにこにこと微笑むを複雑な表情でじっと見つめていたが、やがて意を決した様に咳払いすると、おさえた声で言った。

「…様」
「ん?」

何も知らず「何?」と目を丸くして尋ねるを見て何だか申し訳ない気持ちになりながら、周泰は視線を焚火の方にやって低い声で返した。

「…鼻が垂れております」

「嘘!!」咄嗟に顔を覆って「ご、ごめん!わたしってば最悪!」と叫ぶと、は「顔洗ってくる!」とばたばたと川の方に駆けていく。周泰は焚火に枝を入れながらその後ろ姿を見つめていたが、やがて大きくへっくしょいとくしゃみをした。しかしその時に彼もまた鼻水を垂らした事は、顔を洗って戻ってきたがまた気が付く事だ。

 

 

20030715