overture

 

長い散歩の後、周泰はを彼女の屋敷の前まで送り届けた。
は彼の馬から飛び下りると「ここまでで大丈夫」と微笑んで周泰を見上げた。周泰はすっと馬から下りての隣に立つと彼女の屋敷を見上げ…そしてまだそこまで距離がある事を確認すると、「…いえ、送ります」と低い声で返す。「心配性なんだから、もー。大丈夫よ」笑って自分の背中を押し返すの手を柔らかく払うと、周泰は「女性の一人歩きは危険です」と少し不機嫌そうな様子で呟いた。彼のその表情にはまたおかしそうに笑った。

「ほんとに平気だってば」
「……いえ、送ります」
「何よ、もー…もしかしてもうちょっと私と一緒にいたいとか?」

この手の冗談が通じない彼はの言葉に面喰らった様子で固まる。は何とも間抜けなその表情にぶっと思いきり吹き出すと「やぁだ、冗談よ」とその背中を叩いた。暫くの間彼は物凄い表情で固まっていたが、やがて自分がからかわれたという事実に気付くと憮然とした表情で黙り込む。その表情がますますおかしくて、は身を屈めてヒィヒィと笑った。
二人の間を流れる涼しい夜の空気が心地よい。周泰は目を細めてを見つめたまま暫く黙り込んでいたが、複雑な表情を浮かべてぼそりと漏らした。

「…からかうのはやめて下さい」

―――…本気にしてしまう。

彼の予想外の言葉に、は思わず目を見開いて周泰を見た。周泰はに見られる前にふっと顔を背けると、の屋敷に向かって一人歩きはじめる。その表情が気になっては彼の前まで先回りしようと走り…そしてずっと思いきりつんのめった。ドサっという鈍い音に振り返ると、周泰は慌ててに駆け寄ってその体を助け起こす。は「やっぱ一人って危ないかも…」と情けない声で笑うと、立ち上がってぱんぱんと膝を叩いた。周泰は複雑な表情で泥だらけのの膝を見つめていたがやがて少しだけ表情を緩めると、いつもの低い声で言った。

「……やはり、貴方を一人にはできない」

胸がとくりと小さく音を立てた。見上げると、彼も自分を見つめていた。夜の風がさわさわと木々を揺らして吹き抜ける。二人は暫くの間黙ってお互いを見つめていた。

「周泰」
「…はい」
「好き」

自然に出た言葉だった。周泰は驚いて目を丸くする。胸に愛情が溢れ出して、は腕を伸ばして彼の逞しいその胸にそっと触れ…そっと手を回してその背中を抱き締めた。ぎゅっと腕に力を込めて彼の胸に耳を押し付けると僅かに高鳴る彼の鼓動を感じる。彼の匂いを肺一杯に吸い込んで、は大きく深呼吸した。周泰は石像の様に身動き一つとれず、体を硬直させていた。

「…からかってるんじゃないよ」

呟いて、はますます深く彼の胸に顔を埋める。周泰は緊張のあまりロボットの様な仕草でぎぎぎと強ばらせた腕を持ち上げてはみたものの、その手のやり場がわからずにその姿勢で再び硬直する。肩を抱けばいい?背中を抱けばいい?髪を掻き撫でればいい?いくらでも彼女に愛情を示す方法はあったけれども、どうしても手が動かなかった。
暫く彼はそのままおろおろと自分を持て余していたが、やがて一つ咳払いをしてそっとの肩に触れると周泰はそっとその肩を掴んで自分の胸から離す。そして彼女と視線をあわせられないまま、言った。

「…いけません」
「どうして?」
「…貴方は私に、私は貴方に…恋をしてはならない」

耳に届いた彼の言葉はいくらでも私を傷つける事ができたのに、私がその言葉から掴みとったのは愛の喜びだった。そっと見上げると、彼は足元に視線を落としたまま複雑な表情で黙り込んでいる。はゆっくりと唇を動かして「…そっか、ごめんね」と呟いて、静かに目を伏せる。周泰は目を見開いてを見て…突然に罪の意識に襲われた。

「…じゃあ、もう帰るね」
「……様」
「もう本当に大丈夫だから…一人で帰る」
「…様!」

思わずその手首を掴んで引き寄せる。初めての彼のこんな行動に、を見開いて周泰を見た。咄嗟に引き止めたもののどうしていいのかわからず、周泰は困った様にを見つめる。は「な、なに?」と困惑した様子で周泰を見上げた。周泰は暫くの手首を掴んだまま黙っていたが、やがてたった一言だけ、呟いた。

「……良い、夜を」

少しだけ彼女は期待外れの悲しい目をした。それでもすぐに「周泰もね」と柔らかく微笑むと、そっと彼の手を振り払って屋敷に向かって歩き始める。誰も気付かない熱い感情を秘めた熟れた胸が、急速に渇きはじめるのがわかった。追い掛ければすぐに追い付く事のできる場所に彼女はいた。それでも自分は一歩を踏み出せず、またこの場所に立ち止まる。
 
 
 
 
 

20030729