稽古を終えて人がいなくなった道場で彼がいつも着替えている事は知っていたので、噂に聞いた彼の全身の傷を確かめたくて、こっそり道場に忍び込んで彼が着替えるのを待った。鎧を外して胴着の袖から腕を抜いたその瞬間わずかに覗いた肩には酷い傷跡が確かにあったので、私は動揺して側にあった訓練用の槍を倒してしまった。静かな道場にがたんと響いた音に、私は思わず口元を覆う。彼は落ち着いた様子でわずかに顔をこちらに向けると、短い声でこう言った。

「…様でしょう」
 
私はすごく驚いて、思わず目を見開いた。それですぐに立ち上がって「どうしてわかったの?」と尋ねる。周泰は少しだけ目を丸くした後ほんの少しだけ笑って、「…ずっと存じておりました」と言った。途端に恥ずかしさが込み上げて、私は思わず顔を覆った。
 
 
 

 
奇跡
 

 
 
 
 
「信じてもらえないかもしれないけど、わたし変態じゃないよ。本当だよ」
「…信じます」

周泰はおかしそうにくくっと笑うと、訓練用の槍の掛けられた台の奥に隠れているをそっと自分の元に呼ぶ。俯いたまま重い足取りで道場に姿を表すと、は周泰から数メートル離れた所にぺたんと腰を降ろした。抜いた腕を脚の上にゆっくりとおろして、周泰は落ち着いた柔らかな声でに「…何用ですか」と尋ねる。様々な感情が胸の中を渦巻いて彼を真直ぐに見つめる事ができず、は視線をおとしたまま「用っていうほどの用はないんだけど…」とこもった声で漏らした。僅かに眉を持ち上げて「…そうですか」と返し、暫く黙ったまま座り込んでいたが、やがて彼は「…失礼します」と短く言うと、胴着の胸元に大きな手をかけてそれをするりと脱ぎ捨てる。(そうだ、見なくちゃ!)目的を思い出して咄嗟に視線を上げたのその目は、すぐに驚愕に見開かれた。

(うそ…)

しなやかでありながら硬質であるその端正な肉体には、深く大きい傷跡がいくつも残っていた。自分の想像を遥かに上回る悲惨な傷跡。斬られたものか、突かれたものか、えぐられたものか…彼の肩、胸、腹―――傷がない所を見つける方が難しい。彼の人生を語る様なその壮絶な傷跡。は目を離す事もできず、ただただ呆然とそれを見つめていた。

「…あまり見ない方がいい」

響いた声に、思わず体をびくりと震わせて周泰を見る。彼はどこまでも柔らかくそしてどこか少し哀しい目で怯えた様子で自分の体を見つめているに言うと、「…様の様な女性が見るには、少し刺激的すぎます」と続け、そして手元にあった薄手の上着を素早く素肌に羽織った。「そんな事ないよ!」咄嗟に叫んだ自分の声は予想外に大きくて、は思わず自分の口を塞ぐ。それでも慌ててぶんぶんと左右に首を振ると、は膝立ちのまま彼の元へと近付いて、言った。

「周泰が嫌じゃなかったら、ちょっとだけ見せて」
「……見ても気分が悪くなるだけです」
「いいの。わたし、見たい」

周泰は困惑した表情を浮かべて「しかし…」と唇を動かしたが、あまりにも彼女が真直ぐな視線で自分を見るので断る事ができず、思わず黙り込む。そして渋い顔をすると、羽織ったばかりの上着をやれやれとそっと脱いだ。

 
 
「まだ痛い?」
「……いえ」

てのひらでそっと彼の背中の傷跡に触れる。いまだ赤い肉を露にする痛々しいそれをどこまでも優しい手で撫でながら、は自分に背を向けて座っている彼に尋ねた。彼は短くそう返すと、また黙り込む。逞しい広い背中に広がる無数の傷跡。私は彼の受けた痛みを知らなくて理解することすら難しくて…こんなに近くで触れ合っているのに、彼がどこか遠くて不安になる。こみ上げてきたどうしようもなく切ない気持ちを胸に感じながら、は再び彼に尋ねた。

「痛かった?」
「……当然です」

やはり短い彼の返答。もう慣れているけれども。
はしばらく黙って彼の背中を見つめていたが不意に膝立ちになって彼の目の前まで移動すると、わずかに目を丸くして自分を見ている彼の視線をくぐって裸のその体を見つめる。そこには背中と同じ――もしくは背中以上に深く大きな痛々しい傷跡が無数に存在していて、は思わず息を呑んだ。至近距離で見るそれは彼の人生の過酷さを痛いくらいに生々しく物語っていて、また胸が熟れる様に痛んだ。
慣れた関係といえども年頃の娘にまじまじと裸体を見つめられてはさすがの周泰も居心地が悪いらしく、渋い顔でから視線を逸らす。しかしその瞬間、彼女の柔らかな手が自分の裸の胸にふわりと触れ―――周泰は目を見開いてを見て、いさめる様にその名を呼んだ。

様」

が触れていたのは、鎖骨から胸の下のあたりまで続いている一等に目立つ傷跡だった。渋い表情で「…あまり触れない方がいい」と周泰が差し出した手をやんわりとのけて、癒すようにその傷跡の端から端までを優しく撫でる。女が男の裸の胸を撫でるというこの奇妙な状態に、周泰がまた何ともいえない表情でまたをいさめようとしたその時、彼女の唇から僅かに震える掠れた声が漏れた。

「たくさん戦ったんだね…」

僅かな驚きの表情と僅かな沈黙の後、周泰は低い掠れた声で「…ええ」と呟く様に漏らした。彼女は黙って周泰の傷跡に触れていたがやがて少しだけ俯くと、再び掠れた声で絞り出す様に何事かか細い声で漏らす。聞き取れないその言葉に「…何と?」と訝し気にその表情を覗き込んだ周泰、次の瞬間その目に映ったのは、どこまでも幸せな…そしてどこか悲しみの色を溶かした複雑な彼女の微笑みだった。

「傷だらけになっちゃったけど、周泰が生きてここにいてくれてよかった」

彼女のその哀しくも幸せな笑顔。

初めて見る彼女のその女らしい表情に周泰が目を見開いた、その瞬間。は再びすっと膝立ちになると、周泰の方に向かってそっと身を乗り出した。(何だ…接吻か?いや、接吻はまずい…)突然の出来事、そして咄嗟にこれから起こるであろう事態を想像して、周泰はさらに目を見開いて体を硬直させる。しかしそんな彼の様子とは裏腹に、はふわりと彼の顔に自分の顔を近付けると、物凄い表情で固まっている彼の左目の傷跡にそっと唇で触れた。

あたたかでやわらかい不思議な感覚が、傷跡に残った。

「今ここに一緒にいられる記念ね」

の唇が自分の顔から離れてたっぷり数秒経ってから、周泰は物凄い表情で目を見開き、慌てた様子で「様…!」と口付けられた傷跡を押さえる。するとがまたあの表情で「これくらい許して」と笑ってみせたので、彼はまた思わず黙り込んだ。

 

あなたがここにいきて、わたしがここにいきて、ふたりがいっしょにここにいること。
この素晴らしい偶然の名を―――
 

 

 

20030731