『オペラ鑑賞会』なんてハイソな行事は一般庶民のわたしにとっては正直『どうでも良い行事ベスト3』に入るくらいにどうでもいいことだったのだけれども、偶々ちょっと遅刻をして会場の座席を移動することになった瞬間、わたしの運命は大きく変わった。教師に「座れ」と指示されたバルコニー席の隣を見ると、そのすぐ隣の座席に、半年ほど前に別れてそれっきりだった恋人、跡部景吾が静かに目を伏せて座っていた。彼はゆっくりと視線を持ち上げてわたしを見ると、すっと走った眉を驚いた様にぴくりと持ち上げた。 「、お前…!」 「…なんだ、寝坊か?」 肩を強ばらせてびくびくと震えるわたしを余所に、彼は大きく溜息を吐くと、肘掛けに頬杖をついた。そして長い睫毛を伏せてしばらくじっと何か考えている様子だったが、やがてちょっと視線を持ち上げると、そのまますっと視線を流してわたしを見つめる。美男子揃いの氷帝学園の中でも、彼は一人、異国からやってきた王子様みたいに他を寄せつけない独特のオーラを持っていた。長い睫にさらさらの髪、筋の通った細い鼻に綺麗な唇、すっと走った眉にどこか憂いのある色っぽい瞳。しかし彼が一人目立っているのはその端正な面立ちが云々というよりも、彼という人間の持つ王のオーラに理由があるように感じた。彼が座るとホールのバルコニー席は玉座になり、階下の生徒達は詰め掛けた聴衆となり、歌手は踊子へと成り下がる。彼のそんな圧倒的な存在感とカリスマ性に憧れる者は少なくなかったけれども、わたしはどちらかというと彼のそういう部分が、逆に恐ろしくて仕方なかった。彼の存在はわたしにはあまりにも巨大すぎて、いつだって呑まれてしまいそうだった。 「…お前、何を考えてる」 彼はわたしの言葉にぴくりと片眉を持ち上げると、何か言いかけるように唇を開いた。しかしその瞬間、会場にブザーの音が鳴り響き、ホールを眩く照らし出していた照明がゆっくりと落とされ始める。沸き起こる拍手の中で、わたしと景吾は取り残されたようにじっと見つめあっていたが、わたしは不意にちょっと我に返ると、慌ててステージの方を振り返った。しかしその瞬間、横の座席から素早く手が伸びて、強い力で腕を強引に引き寄せられる。わたしが驚いたように目を見開いて隣を振り返ると、景吾はわたしの顔にその端正な顔をわたしの顔にぐっと近付けて、沸き起こる拍手の中でもハッキリと聞こえるような声で、強く言った。 「……ずっと『景吾』だった癖に、なんで今更『跡部くん』なんだよ。ふざけんな」 景吾は本気で怒っているようだったけど、わたしはどうして景吾が今こんな風に怒っているのか、よくわからなかった。突然爆発した彼の怒りに僅かに動揺する気持ちとは別のところで、きっとこんなことだから別れることになってしまったんだろうなんて、呑気に思った。わたしの腕を掴む景吾の手に、ぎり、と力が込められて、わたしは思わずちょっと顔を歪めて「痛い」と押し殺した悲鳴を上げる。その瞬間、景吾はわたしをぎろりと睨み付けると、獣のような仕草で素早くわたしの唇にその唇を押し付けて、噛み付くようにキスをした。 唇を離した景吾は何も言わずに、わたしの瞳の奥をじっと睨んだ。わたしは景吾がどうしてこんなことをして、そしてどうしてこんな眼差しで今、わたしを見つめるのか、やっぱりわからなかった。わたしの腕を掴む手からそっと力が抜けて、やがて、するりと静かに離れる。そして静かにステージへと向けられた景吾のその視線は、二度とわたしの姿をとらえることはなかった。
恋人よ、我に帰れ/20040804 |