革靴の爪先を擽るつむじ風に肩を縮こまらせながら、俺は夜八時の住宅街を急ぎ足で歩いていた。

迫る新年に向けて、新参である冴島組はいつも以上に慌しく忙しかった。世の恋人達にとって年末の一大イベントである12月の聖夜も、組の事務所で冴島さんと向かい合って遅い夕食の出前のラーメンを啜っているうちに通り過ぎていた。と付き合うようになってからそういった行事を迎えるのは初めての事だったが、結局彼氏らしいことを何もしてやれないまま聖夜は過ぎていった。

と会うのは一体どれくらいぶりだろう。電話やメールのやりとりは時間を見つけてしていたけれども、直接顔を合わせるのはもう何週間ぶりかわからない。疲れ果てて事務所のソファで眠りに落ちる前に、ごく自然に、当たり前のように、映像が擦り切れるほど何度も繰り返し思い浮かべた愛しい笑顔が俺を待っている。

(…すげぇ会いたかったし、)

たまには肩くらい抱いてもいいよな。良い雰囲気になったらキスして、抱き締めて、プレゼント渡して…そんで、ちゃんと好きだって言おう。電話で何度も喉まで出かかったけど、照れ臭くて言えなかったし。やっぱり、こういうのはちゃんと言っとかないとな…。

嬉しさと照れ臭さに緊張が混じり、胸の奥がこそばゆくなる感覚が今の俺には心地良い。彼女の暮らすマンションのエントランスを通り抜けてエレベーターに乗り込むと、冷えた指先で6階のボタンを押した。外にいるのと何ら変わらない冷たい空気が耳朶を冷やして、俺はもう一度肩を縮こまらせる。そして6階のフロアに出ると、彼女の暮らす部屋の前に立ち、深呼吸した。

(よし…)

インターホンを押すと、扉の向こうにチャイムの音が響き渡る。あと数秒もすれば、夢にまで見たと対面できる。扉の向こうのは、一体どんな表情をしているのだろうか。どんな声で俺の名前を呼ぶのだろうか。にやつく口元を必死に隠していると、ガチャ、という鍵を空ける音と共に扉がゆっくりと開いた。そして何度も頭に思い描いた愛しい彼女が、ひょこっと顔を出した。

「城戸さん!」
ちゃ…」
「あ、城戸さん!」
「え、」

久しぶりに見るの顔に目を奪われたのも束の間、の後ろからひょっこりと顔を出したのはスカイファイナンスの花ちゃんだった。花ちゃんの顔を見た途端、刹那的に嫌な予感が頭を過ぎり、ぱっと視線を持ち上げると…案の定、部屋の奥で缶ビール片手にこちらに向かってひらひらと手を振る秋山さんの姿が見える。思いも寄らない事態に、先程までの胸のときめきが音を立てて見る見るうちに崩れていく。一体、これは…何が起きているというのか。

「城戸さん、ピザあるんですよぉ!お酒も!」

呆然と立ち尽くす俺をよそに、花ちゃんは軽い足取りで部屋へ戻っていく。は玄関に出ていたミュールに爪先を突っかけて扉から少し身を乗り出すと、立ち尽くした俺に小声で耳打ちした。

「ごめんね、急だったんだけど、遅めのクリスマスパーティすることになって…」
「へぇ…」
「ちょっとだけ皆と一緒でもいい?」
「はは…」

衝撃のあまり回転の止まりかけた頭で、ぼんやりと彼女の言葉を聞き流す。俺は彼女に招き入れられるままに靴で埋まった玄関に上がると、おもむろに革靴を脱いだ。

 

 

 

リビングのテーブルには宅配のピザの残骸と缶ビールが山ほど並んでいた。秋山さんに勧められるまま缶ビールに手をつけた俺は、ビールを煽りながら横目でちらりと少し離れたところに座っているの様子を伺う。花ちゃんと並んで絨毯にぺたんと腰を下ろしたは、甘い缶チューハイを片手に人懐っこい笑顔を浮かべている。我が恋人ながら、やっぱり…可愛い。久しぶりに見たけど、やっぱり…すげぇ可愛い。

(これで、隣に来てくれたら最高なんだけどな…)

「…ハァ、」

…まぁ、そう上手くはいかねぇよな。つーか、何で当たり前のように秋山さんが俺の隣なのよ。

「城戸ちゃん、最近忙しいんだって?」
「え?まぁ…そうですね。お陰様で」

秋山さんの言葉に適当に相槌を打ちながら、ピザの残骸の端に齧り付く。ピザはすっかり温くなっているし、周囲の空き缶の数を見ても、この宴会もきっと始まって既に何時間か経過しているようだ。秋山さんは缶ビールを喉をごくりと鳴らして流し込むと、再び唇を開いた。

ちゃんから聞いたよ。どんなに忙しくても、ちゃんと連絡くれるって」
「ぶっ」

思いがけない言葉に、飲もうとしたビールを噴き出しかけながら、俺は慌てて唇を拭う。たしかにその言葉は間違いではないが、しかし秋山さんの口から言われると何とも居心地が悪い。
事実、俺とには交際前、上野誠和会との騒動に始まった一連の騒動において、連絡が取れなくなった過去がある。おまけにその間に俺が大怪我をしたこともあり、は人知れず胸を痛めていたようだった。その詫びというつもりもないが――過去とは環境も立場も変わったし、今はを安心させるためにも出来るだけ連絡だけは取るようにしているつもりだ。…それに、他所の男にみすみす持って行かれる訳にもいかない。

「まぁ…せめて、そんくらいは」
「そうだよなぁ。だって城戸ちゃん、ずーっとちゃんのこと好きだったもんな?」
「ちょっ…」

あっけらかんとした態度で言い放たれたその言葉を俺は慌てて打ち消そうとしたが、そうするまでもなく隣から響いた花ちゃんとの楽しげな笑い声によって秋山さんの言葉はすぐに掻き消される。ほっと胸を撫で下ろしながらも苦虫を噛み潰したような表情で恨めしく秋山さんを見やると、秋山さんはからかうように目を細めて笑った。

「まぁまぁ、いいじゃない。ちゃんと成就したんだからさ」
「いや、だからって…」
「きっと喜ぶぜ?だって、ちゃんだってずっと城戸ちゃんのこと好きだったんだから」
「…は、」

耳を疑うような衝撃の発言に咄嗟に顔を上げて、秋山さんを振り返る。俺は反射的に手にしていた缶ビールをテーブルに置くと、秋山さんに詰め寄って興奮を押し殺して尋ねた。

「…ちょっと待ってください、秋山さん。今なんて?」
「え〜?」
「とぼけんのナシですって」
「そんなの、俺じゃなくて本人に聞いたらいいじゃない。ねぇ、ちゃん」
「はい?」

秋山さんが不意に名前を呼んだものだから、は缶チューハイを片手に持ったまま、目を丸くしてこちらを振り返る。一体この男はどうしてこうも性格がひん曲がっているのだろう。

(…だから嫌なんだよ、このオッサン!)

彼女の意識を逸らそうと「何でもないから!」と声を張ると、秋山は空になった缶ビールをテーブルに置いて、すっと立ち上がる。そして片手をポケットに手を突っ込むと、もう片方の手をに向けてひらひらと振りながら口を開いた。

「何か、城戸ちゃんがそろそろちゃんと二人になりたいんだってさ。だから邪魔者はそろそろお暇するよ。ね、花ちゃん?」
「ちょっ…秋山さん!」
「え?城戸さんったら、そんな事言ったんですか?大胆…」

口元に手を当てて大袈裟に驚いて見せる花ちゃんの隣で、は驚いたように目を丸くしたまま僅かに頬を紅潮させてこちらを見つめている。いや、誤解だ。…いや、厳密に言うと別に誤解じゃねぇけど…いや、でも誤解だ。
花ちゃんは頬を染めるの耳元に何かをこそっと耳打ちすると、すっと立ち上がってそそくさと上着のコートに袖を通す。そして桃色のマフラーを襟元にぐるぐると巻きつけると、秋山さんの背中を追いかけるように玄関へ向かった。俺とも慌てて立ち上がり、その背中を追う。二人はそれぞれに靴に爪先を入れると、扉を開けてフロアの廊下に出た。

「そんじゃ、邪魔して悪かったね」
「お邪魔しました!」
「ううん、寒いから気をつけてね」

が小さく手を振ると、二人もそれぞれに手を振り、そして玄関の扉がぱたんと閉まる。嵐が過ぎ去ったかのように不意に訪れる静寂に、俺とはどちらともなく踵を返して、元いた部屋に向かって歩き出す。と、不意にが俺を見上げて、明るく柔らかな調子で俺に話しかけた。

「あっ、残り物ばっかりだったし、お腹空いてるよね?良かったらわたし、何か作って…」
「いや、大丈夫」

キッチンに向かおうとした彼女の腕を咄嗟に掴んで引き止めると、俺はそのまま彼女の手を握った。久しぶりに触れた小さくて柔らかい手のひらの感触に、僅かに鼓動が高鳴る。俺の微かな緊張を感じ取ったのか、も言葉を呑むと、しおらしくなって俯いた。手を繋いだまま部屋まで戻ると、先程まで秋山さんと並んでいたソファに隣り合って腰を下ろす。は頬をわずかに紅潮させたまま、困ったような照れたような表情で俺の表情を上目遣いに覗き込んだ。俺は彼女の手をしっかりと握り締めたまま、空いたもう片方の手のひらで頭を掻いて、そして口を開いた。

「…あの…クリスマスの事なんだけど」
「うん」
「…予定空けらんなくて、ごめんね」
「ううん、いいの」

ふるふると首を横に振った彼女の柔らかそうな焦茶の髪が、天井の照明を跳ね返してきらきら輝いて見える。俺は膝の上で握り締めた彼女の手のひらの感触を確かめながら、言葉を続けた。

「寂しい思いさせてばっかだわ、彼氏らしい事も出来てねぇわで…」
「そんなことないよ」

俺の消え入るような言葉尻に重ねるように、は明るい口調で言葉を返した。その飾らない柔らかい言葉に、後ろ向きになりがちな俺の気持ちがみるみる解けていく。今まで何度彼女の素直なひたむきさに救われ、そして惹かれてきたのだろう。

俺は彼女の手を握ったまま、少し視線を彷徨わせ…そして、一つ、咳払いをする。そして空いた片方の手をおもむろにポケットに突っ込むと、中から綺麗に包装された小箱を取り出して、そしての目の前に差し出した。は驚いたように少し眉を持ち上げ…、そして差し出された物を理解した瞬間、今にも零れ落ちそうなほどに目を大きく見開いた。

「えっ…」
「これ…遅くなったけど、俺からの気持ちなんで」
「そ、そんな…」
「受け取って下さい」

の体が驚きで硬直しているのが繋いだ手から伝わってくる。はおずおずと俺の手からその手を離すと、両手で俺の手から包装された箱を受け取った。細い指で丁寧に包装を解き、そしてビロードの小箱をそっと開ける。そして、中に入っていたネックレスを見るなり、宝石みたいにきらきら潤んだ瞳で俺の顔を見上げた。

「城戸さん…」

何となく照れ臭くて視線を逸らしていたが、おもむろに視線を戻して向き直ると、彼女のその目は僅かに涙ぐんでいるようにも見えた。はもう一度視線を小箱に落とし、長い睫毛をぱちぱちと瞬かせると、ゆっくりと俺を見上げて、そして泣き笑いのような表情で俺に言った。

「ありがとう」
「…いいんすよ、こんくらい」
「ずっと、ずっと大事にするね。絶対、毎日つけるね」

…正直。彼女のその笑顔がすげぇ嬉しくて、多分相当胸キュンしてたけど、苦しいくらいに胸が一杯で、何一つ言葉にできなかった。多分、顔の方はその辺りを隠しきれてなかったと思うけど。ソファにどっしりと腰を下ろしたまま、俺は電源の入っていないテレビの液晶を見つめて、そっと唇を開いた。

「あのさ…」
「うん」
「俺…、」

柄にも無く緊張して、思わず言葉に詰まる。誤魔化すように一つ乱暴に咳払いをすると、もう一度言葉を続けた。

「俺…ちゃんの事がマジで、すげぇ好きで」
「……」
「…すげぇ会いたかったんだわ。ずっと」

言って振り返ったら、真っ赤な顔で大きな目を潤ませて俺を見てたもんだから、恐らく俺の方まで赤くなっただろう。ゆっくり手を伸ばして、柔らかい焦茶色の髪に触れ…そして、肩に触って、そっと腕を回して抱き寄せる。肩口に触れる彼女の温もりに鼓動を落ち着けるように一つ深呼吸すると、その顔を覗き込むようにそっと身を屈め…そして、小さな唇にそっと触れるだけのキスをした。

触れた唇に余韻を感じながら鼻先が触れあう距離でそっと唇を離すと、閉じていた彼女の長い睫毛がゆっくりと持ち上がる。そして、俺の目を見つめて何度か瞬きをしたあと、その唇は控えめに、でも求めるように、俺の唇に小さくキスを返した。唇を求められる感覚に、途端に下半身がどくりと脈を打つ。俺は彼女のキスに応えるように、その柔らかな上唇を食み、そして下唇を舌先で舐めるようにして、薄く開かれた無防備な唇に舌先を滑り込ませる。そしてぼんやりとしていた薄い舌を舌先でくすぐると、途端にの肩がびくっと跳ね、唇から甘い吐息が漏れた。舌先に感じる官能的な刺激と甘い酒の味に息を荒らげながら、俺はの肩を抱き寄せる手に力を込める。は慣れない仕草で俺の舌にその舌を這わせながら、甘く上擦った声で呟いた。

「城戸さん…大好き…」

耳に心地よい甘い声に、いよいよ理性が利かなくなる。互いの唇が唇を掠める距離で、彼女の唇は甘く濡れた声でうわ言のように呟いた。

「どうしよう…わたし、気持ちいい…」

ぐらりと脳天を突くような彼女の甘い言葉に誘い出されるように、俺の唇も容易く本音を紡いだ。

「…俺の方も、さっきからえらいことになってるよ」
「えらいこと…?」

何が何だかわかっていない様子のの唇にもう一度軽く唇を寄せてキスをすると、その耳元にそっと囁いた。

「続き、してもいい?」
「…うん、」

潤んだ目で恥じらいながら俯くの体に腕を回してひょいと抱え上げると、隣の寝室へと向かった。


 



 
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